ある朝、キッチンの窓辺に、見たことのない猫が座っていた。
長くてやわらかなクリーム色の毛。琥珀色の瞳。
まるで遠い国の風をまとったような猫。
「あなた、だれ?」
猫はゆっくりとまばたきをして、窓の外を見た。
その視線の先に、知らない街の気配がした。
気がつくと、そこは乾いた風の吹く、石畳の街だった。
空は深い青。壁は日に焼けた土の色。
どこからか、甘くて少しスパイシーな香りが漂ってくる。
レイラが先を歩く。
振り返りもしない。でも、ちゃんと待っている。
「ついておいで」と言うように、尻尾をゆらした。
角を曲がると、市場だった。
天井から色とりどりの布が垂れ下がり、
木漏れ日のように光が降り注いでいる。
山のように積まれたスパイス。
赤、黄、茶、緑 — それぞれが違う香りを放っている。
サフランの金色。クミンの土っぽい温かさ。
ターメリックの鮮やかな黄色が、指先まで染めてしまいそう。
レイラは、スパイス屋の前でぴたりと足を止めた。
店主のおじさんが、小さな銀の皿を差し出した。
皿の上に、花びら。
深い紅色の、乾燥した花びら。
「バラだよ。食べてごらん」
——え? バラを、食べる?
あの、花瓶に飾るバラを?
おじさんは笑った。
「この国では千年も前から、バラは食べるものだよ」
恐る恐る、一枚を口に入れた。
舌の上で花びらがほどけて、
甘い香りが鼻の奥までのぼっていく。
薔薇の香水みたいなきつさはない。
もっとやわらかくて、どこか懐かしい甘さ。
「おいしい……」
レイラが足元で、満足そうに目を細めた。
おじさんが市場を案内してくれた。
バラの花びらを練り込んだ飴。
バラ水で香りづけしたピスタチオのお菓子。
バラのジャムを浮かべた紅茶。
「バラはね、料理にも使うんだよ」
羊肉の煮込みに、砕いたバラの花びらとスパイス。
焼きたてのパンの上に、バラのジャムをたっぷり。
バラが、料理の「香りの柱」になっている。
花じゃない。食材だ。
市場の奥にある小さな食堂。
おばさんが、大きな鍋で何かを煮ていた。
「座りなさい。食べていきなさい」
テーブルに出されたのは、
バラと羊肉のシチュー。ざくろの実をちらして。
最初のひと口で、目を閉じた。
バラの香りが、羊肉の旨みをやわらかく包んでいる。
ざくろの酸味が、そのやわらかさに輪郭を与えている。
こんな味、知らなかった。
知らなかったのに、どこか懐かしい。
レイラが椅子の下で丸くなっていた。
「ね、おいしいでしょう」と言いたげに。
帰り道、市場のおじさんがバラの花びらを包んでくれた。
「持って帰りなさい。あんたの国でも作れるよ」
紙の包みから立ちのぼる、甘い香り。
この香りごと、持ち帰りたい。
あの味を、自分のキッチンでもう一度。
レイラが、ふいに足を止めた。
もう一度だけ、振り返って市場を見た。
そしてまた、前を向いて歩き出した。
日本に帰ってきた。
いつものキッチン。いつもの窓辺。
でも、あのバラの香りが忘れられない。
「バラを食べる文化」を調べてみた。
すると、ペルシャだけじゃなかった。
中国では「玫瑰(メイクイ)」と呼ばれる食用のバラが、
唐の時代から千年以上、大切に育てられてきた。
古くから料理やお茶に使われてきた、食べるためのバラ。
もっと驚いたことがあった。
そのメイクイが、日本でも育てられていた。
富山の、海の近い静かな町で。
無農薬で、丁寧に、一輪ずつ手で摘まれる
「食香バラ」という名前の花。
花びらを触ると、ペルシャの市場で出会ったあの花びらと
同じようにやわらかくて、同じように甘い香りがした。
ペルシャと、中国と、日本。
遠い国々が、一枚の花びらでつながった。
あの市場で買ってきたスパイスたちを、テーブルに並べた。
ゲランドの塩。オールスパイス。ローリエ。
トマトパウダー。
そして、富山の食香バラの花びら。
旅の記憶と、日本の食材。
少しずつ混ぜて、香りを確かめて。
「あ、これだ」
あの食堂のおばさんの味とは違う。
でも、あの市場を歩いた記憶が、ふわっと戻ってくる香り。
それが、ひとつのシーズニングになった。
今日の晩ごはんは、魚のソテー。
いつもなら塩と胡椒だけ。
でも今日は、あのシーズニングをひとふり。
フライパンから立ちのぼった香りに、思わず声が出た。
「……ペルシャだ」
バラの甘い香りが、魚の焼ける匂いと重なって、
キッチンが一瞬、あの市場になった。
食べてみた。
魚のふっくらした身に、バラの華やかさ。
ゲランドの塩味の奥にある、やさしい甘さ。
ペルシャの味のコピーじゃない。
日本の魚だから出せる、新しい味。
旅の記憶と、自分の食卓が、重なった瞬間。
「おいしい。これ、新しい "おいしい" だ」
窓辺に、レイラがいた。
いつの間にか戻ってきていた。
夕日に照らされたクリーム色の毛が、薔薇色に光っている。
「また連れて行ってくれるの?」
レイラはゆっくりまばたきをした。
窓の外に、知らない街の気配がした。
次はどんな味に出会えるんだろう。
ペルシャの知恵。中国1300年の歴史。日本・富山の食香バラ。
三つの国の「バラを食べる」文化が、ひとつになりました。
いつもの料理にひとふり。
あなたのキッチンが、世界とつながります。